大阪の尺八吹きです。尺八にとどまらず自作のオーディオや想いを!骨髄異型性症候群と多系統萎縮症という難病をわずらて闘病生活に入っています。


by takudoo1021
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真虚鈴その壱

 この尺八本曲は、正式には「開宗根元三虚霊明暗的伝秘曲 真虚鈴」となる。開宗根元とは虚無僧尺八は「普化宗」であり、その元になるという意味です。普化宗は経文をもたない故に三虚霊と言う「真虚鈴」「真霧海箎」「真虚空」の三曲が根本にあるのです。
 鎌倉時代末期から室町にかけ半僧半俗で放浪する「暮露」や後の「薦憎」が尺八を吹き声明や、念仏唄、早歌、猿楽、田楽の伴奏に関わったり、門前にて尺八を吹いて物を乞うなど後の虚無僧の原型が出来つつあった。貴族や僧侶の中にも尺八を愛好する物が出てくる。有名な一休禅師もその一人である。

 室町後期から戦国の世となって武家の浪人も、また薦憎となるものが多くなった。大森宗勲(1570~1625)は織田信長の仕えたが、信長没後一節切の専念し「短笛秘伝譜」「尺八手員目録」を著す。この時フホウエの文字譜が使われた。(現代ではロツレチ譜。卓道はいまだフホウエ譜)

 江戸時代になると、いつか「三虚霊」が現れた(これは宗勲あたりの作曲ではないかと言われる)江戸幕府は、次第に浪人の取り締まりを厳しくしたので、浪人等は生活を脅かされるので、相計って生活保護の為一種の宗団を作り普化宗と名付けたが、真の僧侶てはないから、経典には通ぜず一節切により生活を維持し行脚する事にしたが、当時、一節切は普及しすぎているので、尺八と改称し、雅楽尺八に似せて管の長さを一尺八寸に改め護身用として根株の付いたものを使った。

 宗団の本山として明暗寺を人手したが、新寺の建立は許されなかったので、覚心(法燈国師)が宋から帰国(1257年)後に開山した臨済宗の興国寺の未寺に席を置いた。その為に臨済宗(覚心)との繋がりと自分たちの拠り所の普化とのつじつま合わせのために、この頃「虚鐸伝記国字解」(1795)が作製されたらしい。

「虚鐸伝記国字解」伝説では

 鎌倉時代初期信州の僧覚心が、宋に留学中、同窓の学友張参が珍しい尺八曲をつたえていたので、その曲を学んで帰朝したのが普化尺八の伝来である。
 この張参の教えた曲は、張参16代の祖河南の張伯が唐の高憎の普化禅師が、常に鐸(本当は鈴)を振って市中を説教し「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打、四方八曲来旋風打、虚空来連架打」の禅句を称えた。
 張伯これを慕って入門を乞うたが計されず、禅師の去った後も、虚空から鐸の音が、びびいて来るのを尺八を以て「虚鈴]を作曲したが、これが張参につたわったと言う。

 覚心(興国寺の開祖法燈国師)と尺八の関連を示す資料はない。普化禅師の系統も怪しげなものである。
いずれにせよ、当時の尺八吹き(虚無僧)達の拠り所は「竹の音」であり「普化禅師」の生き様であった。

 長くなったが、この「真虚鈴」は虚無僧尺八、普化尺八、明暗古典本曲と言われる中で、根元的な曲であることは確実である。(古さではなく)

 同名異曲では琴古流の真虚霊、明暗対山流の「虚霊」「虚鈴」道曲にも「真虚霊」がある。
 
 しかし卓道が今回取り組むのは、明暗真法流(旧明暗・フホウエ譜)の「開宗根元三虚霊明暗的伝秘曲 真虚鈴」である。
              (つづく)
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by takudoo1021 | 2009-07-04 19:31 | 尺八