福島原発事故と久の雨によせて
2011年 04月 09日
ずっと雨がなかったけど昨日は久の本降り。
ちょろっと日本橋まで買い物にでた。雨は降り続く。
とそんな時この雨に放射能はどうなんかなと思ってしまうご時世。当局からはこのことに関してなんの音沙汰はない。そしてつい思い出してみる子供時分に。
「雨に当たると放射能をあびる」当時はアメリカ、ソ連(ロシア)の核実験の影響だから確かストロンチュウム90という核物質だったか。
既に世界各国に微量たりといえど放射物質の飛散が確認されている。ならば我が国内はどうなのか?
原子力安全委員会曰くは「第1原発から放出されたとみられる放射性物質は米国でも検出されており、当然国内に飛散する可能性はあるが、問題になる量ではない」 きっちりと測定し公表するべき物ではないのかとおもう。
思うに地球の中で宇宙的規模で核融合がすすみ陽子1個のヘリウム、水素から重金属をとてつもない長い時空のなかで育成されてきた。その中で生命も育成され、人間社会も形成されてきた訳だけど。それは自然界の発展の法則に基づく必然の歴史でもある。
それを人間社会が科学文明なるものにより一瞬にして原子核を分解する、永い宇宙、天然の歴史に対する挑戦である。挑戦すること自体は否定されるべきではないが。
毛沢東の言葉に「必然の世界から自由の世界へ」という言葉があるが、それは自然を人間の社会的実践によて矛盾を分析しその展開(発展法則)を主体的能動的につかみ自然を改造していく。そのことにより人間は自己改造しながら(人間も発達展開)していくということである。
そこで原子力の利用に関して、その法則性を人間はどれだけそのことをつかんでいるのか。おそらく学者たちの机上の、あるいは研究室的な論議、実践の枠を超えていないのではないだろうか。
今回の福島原発の事故への対応を見ているとそうとしか思えない。「冷やさねば」でホースで水を掛ける。子供のお遊びではないんだ。そのレベルなんだ!あの安全、完璧、問題ないという神話の本性は。
社会的に活用する為には、まさに「核分裂、放射性物質」を瞬時にコントロール出来る術を手にしてからではないかと思う。
それに原発に関しては経済も絡みややこしくなってくる。それに「利権」。今回のフランスの対応や、GEが何故問題ありと言われ出していた原子炉を売りつけ東電が設置したのか。いろいろと浮き彫りにされなくてはいけないと思う。そして原発設置は「安全」と引き替えにされてきたのではないか(むろんお金も)ならば設置の根拠は既に失っている。
核を人間が破壊する。それは細胞をいじくり回す、臓器を入れ替える等と同じレベルの人として許されるのかという倫理的な問題もその基底に存在している。
そして再び心に深く「脱原発」と!